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社会福祉法人同胞互助会は、昭和23年に高津刈良によって創設されました。当時、生活施設と言いながら住んでいるご利用者のほとんどが慢性疾患を有しており、リハビリという概念がなく、寝たきりの状態に甘んじているような状況でした。昭和34年に養護老人ホーム偕生園、昭和39年に東京都第一号の特別養護老人ホーム愛全園が認可を受けてからは、在宅サービスに展開し、高齢者の尊厳を守る良質な介護、医療、栄養、リハビリ、そして楽しみを提供する歴史が新たに始まりました。

愛全園の名前の由来

愛とは奪うものではなく、与えるものであるという言葉がありますが、愛というものは二人の人間の間に共通の場を必要とし、わけ隔てなく、相互に与え合うものでなければならないと思っています。愛することを知っている人は、また同時に苦しむことも知っているといえるのではないでしょうか。なぜなら、真の愛は苦しみと犠牲なしに与えられるものではないからです。真の愛を全うする場を作りたいという想いから愛全園は誕生しました。

政治家になるか一流の社会事業家になるか

創設者 高津刈良

創設者 高津刈良

創設者高津氏は、若い頃、飲む、打つ、買うに興じて父親に勘当され、一旗上げてみせるという思いで満州に渡ります。満州では、ビヤホール、クリーニング業、競馬場内の宝くじ売り場の権利を持ち、ボクシングの興業で成功を収めた後、日本に引き揚げた昭和21年からは、吉祥寺にボクシングクラブを経営します。しかし、引き揚げまでの苦労と敗戦の惨めさや辛さが胸の中にあったのでしょう。昭和23年から同胞互助会を作り、授産事業をはじめます。厚生省から縫製作業の仕事をもらって困窮者に仕事を与えるというものです。国民が早く敗戦から立ち直る仕事をと考えていたのでしょう。日本が落ち着き、授産事業を利用する人が少なくなり始めた昭和30年頃になると、高津氏は家族に対して、「政治家になるか一流の社会事業家になるか」どちらがよいかと意見を求めたといいます。政治家は一家をあげてやらなければならないので絶対に反対という家族の意見を聞き、一流の社会事業家を目指すことを決意します。しかし財産がある訳ではありませんでした。満州時代の財産は没収されてしまいました。そのあと、妻と義理の妹たちは、美容院の経営、吉祥寺の京王電鉄のガード下にビリヤードとビヤホールの店を開き、店は深夜まで営業し資金を溜めていきます。

社会福祉法人同胞互助会のあゆみ

当時の偕生園 要覧

高津氏は、過去の過ちを悔い、親の死に目にも会えなかった経験から、困っている人々の役に立つことを決意しました。まず昭和23年、武蔵野市吉祥寺に財団法人同胞互助会を設立し、戦後の混乱で仕事に困窮する人々のために授産施設「吉祥寺授産所」を開設します。
昭和27年には社会福祉事業法の施行に伴い、社会福祉法人に組織変更しました。しかし、朝鮮動乱後の日本経済の復興とともに社会が落ち着きを取り戻すと、授産施設の利用者数は減少していきました。その一方で、家族や住居のない高齢者が増加してきたため、高津氏は昭和34年、これまでの商売で得た資金を元手に、昭島市拝島町(現在の田中町)に約2,000坪の土地を購入し、借地と合わせて約3,222坪の敷地で、生活保護法に基づく養老施設「偕生園」(定員50名)を開設します。

当時の偕生園

開所当日、上野の更生相談所からは、ノミやシラミがいるためトラックの荷台に乗せられた65歳以上の浮浪者の方々がやってきたといいます。高津氏は、苦労して作った施設に来てくれたという思いから、一人ひとりに最敬礼して迎え入れました。当時、国からの措置費は少なく、経営は困難な状況が続きましたが、養老施設が少なかったことや住宅難から入居希望者は多く、増築を重ね、昭和37年には定員を140名に増員しました。

養老施設から養護老人ホームへ

昭和38年に老人福祉法が制定され、「養老施設偕生園」は「養護老人ホーム偕生園」と改称されました。この施設は、利用者が生活する場であるだけでなく、職員もまた利用者と共に生きる「偕(とも)に生きる」ホームであるという理念を掲げました。職員は、利用者の生活の知恵から積極的に学び取ろうとする姿勢で接し、人間として共に成長できるよう、人間関係と相互信頼を深めることを意識して関わりました。
過去に様々な困難を経験してきた利用者の方々も、安全で安心な場所で生き生きと晴れやかな気持ちで生活する中で、「今度は何をしようか?」と余暇活動についての話し合いが生まれるようになりました。その結果、舞踊部、華道部、茶道部など、自然発生的に様々なクラブ活動が誕生しました。施設は、南に多摩川を望む武蔵丘陵の小高い台地に位置し、中央高速八王子インターチェンジから5分とかからない国道16号と奥多摩街道に沿った交通至便な場所にあります。

当時の偕生園

養護老人ホームのこれから

現在、養護老人ホームに入居している利用者の多くは、施設での生活期間が長く、加齢に伴う心身機能の低下により、約60%近くの方が要介護認定を受けています。しかし、住み慣れた「我が家」となっているため、特別養護老人ホームへの転居を望まない方も多く、在宅福祉サービスを活用し、施設内で介護を受けている方も少なくありません。また、経済的な困窮によりこれらのサービスを受けられない方については、少ない人数の支援員が介護を行っているのが現状です。

全国に先駆けた特別養護老人ホーム「愛全園」の誕生

昭和38年に老人福祉法が制定され、国が特別養護老人ホームの設立を推進する方針を知った高津氏は、ヨーロッパの施設を視察しました。そこで多くの施設がカトリックの教えに基づき、シスターたちが献身的に高齢者に奉仕する姿に深く感動したそうです。これは宣教師であった彼の父親の影響も大きかったのかもしれません。
当時、特別養護老人ホームは名古屋の病院で試験的に開設されたばかりで、常時介護を必要とする高齢者への対応や施設の設計など、すべてが手探りの状況でした。こうした中、昭和39年6月15日、東京都で第1号となる特別養護老人ホーム「愛全園」が誕生しました。これは全国に先駆けた画期的な取り組みであり、高齢者福祉における新たな道を切り開く草分け的存在となりました。

『すみれ幼稚園』の園児たち

この頃から毎年訪れて下さる『すみれ幼稚園』の園児たち

愛全診療所の誕生

施設の創設当初から、最大の課題の一つは医療機関の併設でした。入居者の80%以上が治療を必要とし、スムーズな入院措置も困難だったため、高津氏は当時、慈恵医大のインターンであった娘の幸兌医師を半ば強引に呼び寄せ、応急の医療体制を整えました。
幸兌医師が施設の医療という困難な状況に身を置くことになったのは、入居者にとってまさに大きな福音だったと言えるでしょう。その後、当時としては異例であった施設内診療所の設置について、様々な関係者の協力を得て働きかけを続けた結果、昭和45年に一定の条件付きで保険医療機関としての認可が下りました。これにより、幸兌医師は正式に施設の常勤医として勤務を開始しました。現在では施設内診療所の設置は認められていないことを考えると、この功績はまさに奇跡と呼べるものです。
現在、幸兌医師は理事長として法人を統括しつつ、漢方専門医としての専門性を活かし、施設内外の患者さんの診療にもあたっています。常勤医の職務は息子の蓮村医師が継承し、複数の医師体制を確立したことで、当施設は「看取りの施設」として全国から注目を集め、多くのお問い合わせをいただいております。

愛全園発足時の介護・看護スタッフ

昭和39年 愛全園発足時の介護・看護スタッフ

上皇明仁陛下、上皇后美智子様

昭和47年、まだ皇太子だった上皇明仁陛下、上皇后美智子様がご視察に来られました。

高津氏の功績

「大聖グレゴリオ騎士団長」の称号授与

昭和48年11月
ローマ法王パウロ六世から「大聖グレゴリオ騎士団長」の称号授与

ローマ教皇庁立サレジオ大学名誉博士

昭和53年10月
カトリックの社会福祉に対する予算確保、ローマ教皇庁の大学奨励学費制度に参加し、低開発国
学生留学資金を提供したことなどにより、ローマ教皇庁立サレジオ大学名誉博士の学位を授与

※引用:愛全園の想い出 生い立ちの記
老人養護に一生を賭けて逝った夫 愛全園名誉園長高津きくい